[ラ・ロシュフコーの言葉]

2009-1-23

【ラ・ロシュフコー箴言集(訳:二宮フサ)】

情熱はしばしば最高の利口者を愚か者に変え、またしばしば最低の馬鹿を利口者にする。


慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。


哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。


死を解する人はほんの僅かである。人はふつう覚悟をきめてではなく、愚鈍と慣れで死に耐える。そして大部分の人間は死なざるを得ないから死ぬ。


太陽も死もじっと見つめることはできない。


われわれは気分に従って約束し、怖気に従って約束を果たす。


欲で目が見えなくなる人があり、欲で目が開かれる人がある。


われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。


人間は何かに動かされている時でも、自分で動いていると思うことが多い。


地位を確実に掴むために、人はあらゆる手を使って、すでに自分がその地位を占めているように見せかける。


運命は一切を転じてその寵児たちの利をはかる。


恋のあり方はひとつしかないが、そのさまざまな模造品は千百とある。


恋は燃える火と同じで、絶えずかき立てられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである。


ほんとうの恋は幽霊と同じで、誰もがその話をするが見た人はほとんどいない。


友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ。


われわれが不信を抱いていれば、相手がわれわれを騙すのは正当なことになる。


年よりは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。


名門の名は、そのよき担い手たり得ない者を、引き立てるかわりに卑小にする。


断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。


若者は血気に逸って好みを変え、老人は惰性で好みを墨守する。


詭計や裏切りは器量不足からしか生まれない。


単に無知だから利口者に騙されずにすむ、ということも間々ある。


少ない口数で多くを理解させるのが大才の特質なら、小才は逆に多弁を弄して何ひとつ語らない天分をそなえている。


世間は偉さそのものよりも偉さの見掛けに報いることが多い。


食欲は気前のよさ以上に理財の道に反する。


善と同様悪にも英雄がいる。


美徳は、虚栄心が道連れになってくれなければ、それほど遠くまで行けないだろう。


ひとしきりしか歌われないはやり唄にそっくりの輩がいる。


大部分の人は羽振りや地位によってしか人間を判断しない。


偽善は悪徳が美徳に捧げる敬意のしるしである。


虚栄心、恥、そしてとりわけ体質が、男の武勇と、そして女の貞節を成す場合が多い。


あまりにも急いで恩返しをしたがるのは、一種の恩知らずである。


最高の才覚は、事物の価値をよく知るところにある。


真の雄弁は、言うべきことはすべて言い、かつ言うべきことしか言わないところにある。


人の偉さにも果物と同じように旬がある。


伝染病のように感染る狂気がある。


恩知らずに力を貸すのは大した不幸ではないが、人でなしに借りをつくるのは耐え難い不幸である。


偉大な人物になるためには、自分の運を余す所なく利用する術を知らねばならない。


われわれの涙には、他人を欺いたあとでしばしばわれわれ自身まで欺くのがある。


洞察力の最大の欠点は、的に達しないことではなく、その先まで行ってしまうことである。


馬鹿には善人になるだけの素地がない。


他人の虚栄心が鼻持ちならないのは、それがわれわれの虚栄心を傷つけるからである。


気違いと馬鹿は気分でしか物を見ない。


信頼は才気以上に会話を潤す。


人間一般を知ることは、一人の人間を知るよりもたやすい。


年取った気違いは若い気違い以上に気違いだ。


頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない。


頭がよくて馬鹿だ、ということは時どきあるが、分別があって馬鹿だ、ということは絶えてない。


恋を治す薬は幾つもあるが、間違いなく効くのはひとつもない。


大きな罪を犯すことのできない人は、他人に大きな罪の疑いをかけることもなかなかできない。


模倣はきまって惨めなものである。


自分の秘密を、自分自身が守れないのに、相手に守ってくれなどと、どうして言えよう?


友達の友情が冷めたことに気づかないのは、友情に乏しい証拠である。


善いことの終わりは悪で、悪いことの終わりは善である。


極度の退屈は退屈しのぎになる。

[ ラ・ロシュフコー ]