[高坂正堯の言葉]

2008-12-04

【現実主義者の平和論】

平和=中立という飛躍した方程式こそ、理想主義的な平和論から活力を奪っているのではないだろうか。中立はそれ自身最終的な目的ではない。絶対平和という日本国民の価値が実現されうるような国際秩序の達成への過程の一つとして、中立という手段がとられるかもしれないし、とられないかもしれない。


われわれは、すでに権力政治のなかに組み入れられており、権力政治的な力の均衡の平和の一つの要素となっている。日本がそこから突然退くことは、力の均衡にもとづく平和を危機にさらすというギャンブルでしかない。


絶対平和は、窮極的な目標としては正しいし、また論理的な一貫性を持っている。だが理想主義者たちは原水爆の危険を強調するのあまり、国際社会において、現在、軍事力が果している役割を性急に否定してしまう傾向がある。


国家が追求すべき価値の問題を考慮しないならば、現実主義は現実追随主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある。また価値の問題を考慮に入れることによってはじめて、長い目で見た場合にもっとも現実的で国家利益に合致した政策を追求することが可能となる。


力によって支えられない理想は幻想に過ぎないということは、今なお変らぬ事実ではないだろうか。もし、われわれの権力政治に対する理解が不十分ならば、われわれの掲げる理想は、実体を欠く架空のものとなってしまうのである。過去十年以上にわたって続けられてきた中立論を検討するとき、こうした疑問を感ぜざるをえない。

 

2008-11-18

【国際政治―恐怖と希望】

われわれは平和について語るとき、なんとなく抽象的な平和を考え、それにわれわれの希望を託し、現実の世界の恐怖を対比させてしまう。しかし、抽象的な平和などありはしない。存在する具体的な平和は、すべて但し書きを必要とする。そこにわれわれの置かれた苦境があるのだし、その苦境に直面することがわれわれのつとめなのである。


よい意味においても悪い意味においても、日本人はけっして策謀という点で劣ってはいない。しかし、国内政治においてはきわめて権力政治的な人間である日本人が、国際政治に関しては権力政治に適応する能力に不足していることは、なんとしても否定しえない事実なのである。


[ 高坂 正堯 ]