[福岡伸一の言葉]

2009-07-27

【生物と無生物のあいだ】

ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない


DNAこそが遺伝情報を担う物質である。進歩しているようでその実、同じような円環を回って元の場所に戻るがごとき人間の認識の旅路の中で、その円環が、わずかながらでもらせんを描いて上層階に昇りうることがあるとすれば、それはこのエイブリーの発見のようなエポックを指すのだろう。文字通り、彼は人類史上初めて、このテラ・インコグニタ(未知の大地)へつながる"らせん"階段の扉を開いたのである。


アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く隠微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手―講師―助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする。


日本の大学の研究室に身を置くと、さまざまなことがわかってくる。同じ場所に長く留まれば必然的に物々は煮詰まり、事々は倦む。研究は組織の中で行われているように見えるけれど、結局、研究とはきわめて個人的な営みなのだ。だからこそ何をもってよしとするかは本人の納得の仕方による。私は博士号をとったあと米国で職を探すことにした。米国のシステムは日本の大学を呪縛する講座制とはかなり異なる。

[ 福岡 伸一 ]