[ロラン・バルトの言葉]

2009-1-15

【テクストの快楽】

テクストの快楽。それは、ベイコンの模倣者のように、次のようにいうことができる。決して弁解せず、決して釈明せず、と。


テクストが私に提供される。このテクストは私を退屈させる。それはまるで子供がおしゃべりしているみたいだ。


テクストを快楽によって評価するのはいいが、これはいい、あれは悪いという訳にはいかない。優等生のリストもないし、批評もできない。批評というものは、常に、戦術的な狙い、社会的習慣、そして、ほとんどの場合、想像物の殻を伴っているからである。


快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の凝着を揺がすもの、読者と言語活動との関係を危機に陥れるもの。


《争いをひそかに差異に替えること。》 差異は争いを覆い隠したり、和らげたりするものではない。争いからかちとられるものだ。争いの彼方と傍らにあるものだ。争いは差異の精神的状態以外のものではないだろう。


テクストの快楽、それは私の肉体がそれ自身の考えに従おうとする瞬間だ―――私の肉体は私と同じ考えを持っていないから。


快楽(特にテクストの快楽)は右翼の思想だと思い込ませようとする神話がある。右翼の方でも、歩調を合わせて、抽象的な、退屈な、政治的なものは、左翼に押しつけ、快楽は自分用に取っておく。ようこそ、諸君、やっと文学の快楽に辿り着いたね、という具合だ。


愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。


「新しいこと」はモードではない。批評全体の基礎となる価値だ。


フランス人の二人に一人は本を読まないらしい。フランスの半分はテクストの快楽を奪われている―――みずから奪っているのだ。


「文」は階級的である。支配があり、従属があり、内的制辞がある。こうして、完結に至る。


快楽のテクストは必ずしも快楽を詳述するテクストではない。悦楽のテクストは決して悦楽を語るテクストではない。表象の快楽は対象と結びついてはいない。ポルノグラフィは確実に効く訳ではない。


どこかでテクストの快楽について一言でもしゃべると、二人の憲兵が待ち構えていて、襲いかかる。政治的憲兵と精神分析的憲兵である。

[ ロラン・バルト ]