[平野啓一郎の言葉]

2010-07-26

【平野啓一郎公式ツイッター】

歯磨き粉のチューブをふと見つめながら、モノにとどまっている視線の時間が、最近、極端に短くなっていることを思う。小説の書き手が描写に苦しみ、読み手が描写に倦む理由か。美しければ、その時間を喜びと感じられるはずだが。


小説が紙を去って、完全にオンライン上の存在になるなら、一般に馴染みのない語句の説明はすべて外部のリンク先に委ねられる。そうすると、今後の情報の過剰化を反映しつつ、それなりにヴォリュームが抑えられた小説になるだろう。会話の中で、一々初歩的な質問をするような登場人物が姿を消すはず。


ダ・ビンチの空気遠近法みたいに背景の描写を処理できないかとよく考えるが、言葉はどうしても対象をくっきりと指し示してしまう。「机」と書くと、机がぐっと前に出てきてしまう。


スーパーに行くたびに思うのだが、レジの人が、バーコードを通し終わった商品を、テトリスのように完璧に詰めていったカゴの美しさは、最早アートだと思う。外国人は、あれを見て、かなり感動するんじゃないか。


森鴎外の『小倉日記』では、日曜日が来ると必ず、「日曜日なり」と書いてある。7日ごとに几帳面に反復されるので、ページを捲っていると、整然としていてヘンに美しい。


「技術の進歩が人間概念を変えることがあると思いますか。」と澁澤龍彦は、三島由紀夫に尋ねている(『三島由紀夫覚書』)。三島は言下に答えて曰く「そんなことは絶対ないですよ。少なくとも人間が肉体の外へ一ミリでも出られない限り、(中略)人間概念は百万年後も今もおんなじだよ。」


電子書籍端末では、紙の本のように線が引けないとか、書き込みが出来ないとか、端を折れないとかいう話になるが、そういう機能も、じきに盛り込まれていくだろう。今でさえ、タッチスクリーンの技術がこんなに発展しているのだから。それまでは、紙の本に線を引いて読んでいるのかもしれない。


小説の場合、わざわざ面と向かって会わずとも、メールやスカイプなどで用事が済んでしまうようになると、登場人物がいつも同じ部屋の中にいることになって、場面が単調になってしまう。そうなると、対面コミュニケーションを「必然」として一番書きやすいのは、結局、恋愛だろう。


14日分の『かたちだけの愛』を送る。自分で創造した登場人物なのに、その人の気持ちが、急によく分かるようになる時がある。そういう回だった。うまく書けるかなと思いながら取り組んだ場面だったが。


時々、「平野さんって、あの『月蝕』の?」と言われる。なんとなく知ってくれているだけで十分なので、「いえ、『日蝕』です」とは言いにくいけど、「はい」とも言えない。あと、「直木賞を獲った方ですよね?」とも言われる。


東京は、ものすごく天気がよくて、ものすごく寒い。そして、なかなか原稿が書き上がらない僕は、ものすごく眠い。。。


京都駅で、坊さんの頭をたくさん見たが、剃髪というのはシーシュポスの神話だと思う。剃っても剃っても生えてくる髪の毛は、煩悩のメタファー。


「ヨーグルト(市販のカップ入り)を振ってから食べないのは、納豆を混ぜないで食べるのと一緒です! 開ける前によく振ってください」と、昔テレビで日本在住のブルガリア人が言っていた。それ以来、真面目に実践しているが、確かにトロトロになる。それがイヤな人もいるだろうけど。


それにしても、代表制民主主義の議会で、選ばれた代表が代表にふさわしいのかどうかをひたすら議論し続けている、この恐るべき停滞感。……


夕方、空腹のあまり、勢いで食べた「わかば」のたい焼き2匹が、胃の中でまだ、かなりの存在感を放っている。横尾忠則さんは、たい焼きのしっぽは、最後の「お口直し」のためのもので、あそこにまで餡を入れるなんて、邪道だと常々おっしゃっているが。


小説の登場人物の造形がうまくいっている時には、書いていて、その肉声がはっきりと聞こえてくる。逆に、声さえ聞こえてくれば、あとはあまり揺らがない。どこかでサンプリングされた声なのだとは思うけど、混ざり合っているのか、誰かは分からない。


手ぶらで本を読むというのは、たわいもないことのようだけど、読書は、音楽やテレビと違って、「ながら」が本当に出来なかったというのが、このマルチタスク時代には、かなり不利だった。手ぶらでも、出来ることはかなり限定されるが、朗読機能も付けば、「ながら」化も進むのでは。


プロダクト・デザインは、用途や性能によってどんなに多様に展開しても、結局は、人間の身体のサイズ、形へと着地するしかない。ということを、iPadを見ながら、改めて感じる。


「民衆」と「大衆」とを分けて考える。「民衆」は身体的存在で、規模は限定的。多様性が特徴。「大衆」は、マスメディア的現象で、規模は非限定的。画一性を志向。マスメディアの登場以降、人間の中には常に民衆性と大衆性とが同居。ネットは、ある意味、人間の民衆性を掬い上げたメディアか。


J=P.メルヴィルの『海の沈黙』鑑賞。映画や小説で、名作と呼ばれるためには、作中に名場面が幾つ必要なんだろうかと考える。鑑賞中は、10個でも20個でもあった方が楽しめる。しかし、振りかえると、3個だけしか名場面のない作品の方が、印象は強い。


トゥーサンの『愛しあう』は、読んだ時には、こんなカスカスの小説、どこがいいんだと全然感心しなかった。ところが、2年経っても、3年経っても、幾つかの場面が鮮明に記憶に残っていて、アレはアレでうまいのかと、最近になって感心している。


零戦の番組をチラチラ見ていた。戦場から帰ってきた人は、銃撃の様子を説明するために、「ダーッと」とか「バーッと」といった擬音語(オノマトペ)を、腹に力を込めて必ず使う。ビルマから帰ってきた祖父もそうだった。それ以外に表現できないのだろう。擬音語について改めて考えさせられる。


書籍の電子化についての僕の意見ははっきりしている。テンポはともかく、この流れは自明なので、関係者は各自で対応するしかない。後戻りは出来ないので、未来の可能性を考える事に時間を使うべき。ただし、失業も含めてかなり苦労する人が出てくるので大変だと思っている。力になれるなら相談に乗る。


毎日新聞向けに電子書籍についての文章を書いていて、「あまぞんがわのしゅちょう」と入力すると、「アマゾン川の主張」と誤変換された。川のお化けが立ち上がって、森林伐採に怒ってるみたいなヘンな絵が頭を過ぎった。


『ウェブ人間論』では、アーレントを使って、ウェブ空間を「新しい公的領域」と見なす議論をしたが、何の話題にもならなかった。今、ツイッターをやっていると、その発想の妥当性を感じる。あの対談自体は、かなり古びてしまった部分も多いけど。


思想というのは、メディアを通じて物理的に組織化されないと、伝わらないものだよという、レジス・ドブレの考えは、まったく正しいと思う。


アレグラは、僕にとっての「季語」。飛行機のパイロットが服用しても大丈夫という謳い文句の「眠くならない花粉症の薬」。これがないと、これからの季節は仕事が出来ない。ご興味のある方は、病院で処方してもらえます。


某出版社の編集者から、国際関係論の「平野健一郎」さん宛の仕事のメールが届く。以前に表参道の「COLORS」というヘアサロンの「平野啓一朗」さんと間違われて、インタヴューの謝礼が向こうに支払われていたと、編集者から謝られたことがある。関係者の皆さん、ご注意ください(笑)


ちなみに、「平野健一郎」さんにも「平野啓一朗」さんにも、お目にかかったことはないが、「平野啓子」さんとは、番組でご一緒したことがある。出演者名として、「平野啓子」「平野啓一郎」と並んで表示されて、なんか、ヘンなユニットみたいだった。


さいたまのW・ヒューストン。かつての剛速球投手のストレートが、140km前後しか出なくなってる、みたいな哀しさはあったものの、よくぞここまで立ち直った、という感じで、会場も結構あたたかかった。全盛期を彷彿させる瞬間もあり、アルバムがイマイチだっただけに、全体的には期待以上だった。


『美女と野獣』は、「野獣」がギーガーのエイリアンみたいな姿でも、あの結末になるだろうか。ヒロインは打ち解けられるか?そう考えると、美と醜、本質と外観というよりも、むしろ、人間性と獣性(=自然)というテーマに見える。「野獣」は自然の脅威の、「エイリアン」は宇宙の脅威のエージェント。


ギーガーの原画のエイリアンの頭部は、映画よりももっと露骨に男性器的で、その意味では『エイリアン』も、『美女と野獣』のヴァリエーションなんだろうけど、そのエイリアンが卵を産む、という設定が面白い。


紙の本の全集にはずっと憧れがあったが、あれも失われていく文化か。最後の三島全集は、1巻1㎏強で、全44巻の合計は60㎏弱。これは、三島の体重(59 ㎏)とほぼ同じ。偶然だが、これもまた彼の所謂「肉体と精神の一致」か。本棚には、三島の肉体が横たわっているのと同じ重みがかかっている。


UFC110。ノゲイラKO負けとは。。。燃えさかる炎の中で、今にも灰になろうとしている「勝利」を、ほんの一瞬の隙を突いてつかみ取るような彼の戦いが好きで、 PRIDE時代は毎回見に行っていた。一度対談(というか、インタヴュー)したことがあるけど、ナイスガイだった。


銀座のクリスティーズの後、長谷川等伯展へ。スタイルの探究と成熟の軌跡が辿れて刺激的。『松林図』一点というより、全体の流れを見るべきだと思う。何カ所かで、「ここ!」というブレイク・スルーの瞬間が確認できる。その後、エルメス銀座の「小谷元彦」展へ。帰宅して夕食後、原稿執筆中。


未熟だという自覚が深まっていくこと自体を、一つの成熟と信じたい。執筆の合間に、そんなことを思って自分を慰める。


小説も写真も、建築などと違って、誰もが元手をかけず、専門的なトレーニングもなく始められるのがいいところ。が、だからこそ、何億ものお金が動いて、何十人というスタッフが動いている世界なら、これでいいとは思わないだろうというような甘い表現も出てくる。審査を通じて自戒を込めて感じること。


登場人物の造形は、最初は、述語をある程度自由にして、固有名詞としての主語を豊かに充填していくしかない。が、ある時点からは、むしろ、主語が的確に述語を取捨選択しつつ、率いていくべき。そのタイミングが難しい。早すぎると類型的に、遅すぎると曖昧な人物になる。昨今は前倒しを求められるが。


定食屋で『ゴルゴ13』を読む。ゴルゴも、当初は述語がかなり自由で、笑ったり、ジョークを言ったりするが、連載が進むにつれて、そういう述語に相当する絵は、厳密に排除されていく。面白いのは、それが作者ではなくスナイパーとしてのゴルゴの成長に見えること。最早、笑わないゴルゴみたいな。


表現においては、ある世界観の中で、どれくらい「伸び伸びと」パフォーマンスできるかが重要。未知の世界観にトライした浅田選手は苦労したんだろうなという感じだった。キム・ヨナ選手の方が、想像の及ぶ範囲の世界観を掘り下げてムリがなかった感じ。その印象は採点者の主観に作用したと思う。


会田誠氏よりエッセイ集『カリコリせんとや生まれけむ』を送ってもらう。真面目ないい本。「星星峡」連載時にも読んでいて、原題は、『濃かれ薄かれ、みんな生きてんだよなぁ……』だった。いいタイトルだなと思ってたけど、今回、よくよく見てみると、「生えてんだよなぁ……」だった(笑)


フランス革命で、民衆の貴族に対する怒りが爆発したのは、専横な権力の抑圧や搾取に耐えかねたからではなく、逆に機能不全に陥った弱体化した権力に依然として富が集中していたから、というのは、トクヴィルの逆説的な分析。10年代は、政治や経済のあらゆる局面で、同種の反応が確認されるだろう。


文化多元主義cultural pluralismと多文化主義multiculturalismとの違い。大ざっぱに言うと、前者はリベラリズムに対応し、多様な文化の混交を是とする。後者は多様な文化を多様なまま、その出来する世界ごと認めようとするコミュニタリアニズムの立場。


ジャズの歴史の中でのマイルスとウィントンとの音楽観の違いは、60年代的な文化多元主義か(ジャズでもロックでもクラシックでも音楽は音楽)、80年代的な多文化主義か(ジャズはジャズ、クラシックはクラシック)の違いと解釈できる。


関係空間ごとの分人dividualを抱え込んだ個人individualのあり方として、『ドーン』では、分人多元主義dividual pluralismと多分人主義multidividualismとについて考えていた。分人は分けられたままの方がいいのか、混ざり合っていくべきか。


司会は、もっとうまくできたはずなのにと思うけど、結局、ま、しょうがないと思うしかない。タモリさんが『いいとも』の反省をしないというのは、そういうことなのか。司会は、反省という主体的な身振りになじまない仕事かもしれない。リディ・サルベールさん、江國香織さんのお話はとてもよかった。


世の中に絶えて花粉のなかりせば 春の心はのどけからまし……


博物館島を散歩。現地の人にとっての日常が、自分にとって非日常である時、不安を覚えることもあれば、心躍ることもある。今日は、静かな気分だった。逆に、ここの人たちにとっての非日常を、東京で毎日、日常と思い込んで生活していることが、なんとなく怖くなってくる。これからシンポジウム。


戦後の政治的な言説空間の中で、三島はポジションを見つけるのが難しかった。文壇でも、色んな人が戦争体験を語る中で、彼としては、当面、耽美主義者でいるしかなかった。60年安保によって、やっと彼も政治参加が可能になったが、その立場は、「反動」以外にはあり得なかった。昨日の食事中の会話。


それにしても、俺はやっぱり、三島が好きなんだなぁと、改めてつくづく感じた二日間だった。14歳の時に『金閣寺』を読んでいなかったら、恐らく違った人生になっていたはず。


夕方、近所のマッサージ店に。若い台湾人の男の子が担当だったが、形容詞の活用がまだ苦手らしく、「ちょっと‘弱く’」と言うと、「ああ、ちょっと‘弱い’?」と、もっと強く揉まれて、飛び上がりそうになる。日本語は難しいが、そこに落とし穴があったとは。。。


最近、なぜか、紙で手を切ることが多い。今も1カ所、左手の人差し指にけっこう深い切り傷がある。電子書籍の話ばかりしているから、紙に恨まれているのか?


東京は良い天気。昔から軽い飛蚊症で、普段は気にならないが、青空を見つめていると、ちらちらする。高校生の頃、なぜかいつも窓際の席だったので、授業が退屈な時には、よくその「ちらちら」を見ていた。飛蚊症という言葉を知らなかったので、空の毛細血管が透けて見えているようで不思議だった。


東京に戻る。京都の友人の結婚式は、初体験の仏式。焼香から始まるのだが、白無垢を着た新婦の手元から立ち上る煙の揺らめきは、ちょっと官能的だった。ホテルに場所を移して披露宴。スピーチがうまくいってホッとする。古いつきあいの友人なので、出席できてうれしかった。


「役に立つ人間であるということが、私には常に、何かしらひどく醜悪なことに思われた。」というボードレールの言葉を、時々ふと、思い出すことがある。こういう間違った、非常識な言葉には、妙に人を慰める力がある。


よく健康食品のCMで、「人間の1日に必要な栄養分を、野菜で採るなら、こんなにたくさん!」と、とんでもない量が映し出されるが、人類の歴史上、そんな食生活をしていた人間がいるのだろうか? 「1日に必要な栄養分」って、どういう計算なんだろう?


『かたちだけの愛』のあとに書く小説のテーマを突然思いつく。いつもそう。執筆中の小説が終わりにさしかかると、それまでどうしようかと考えていた次の小説の全体像が急にバーッと見えてくる。それにまた、今書いている小説が刺激される。


「たちあがれ日本」がOKなら、もう、「氣志團」でも、「DREAMS COME TRUE」でも、何でも良いような気がする。そのうち、バンドみたいな政党名がいっぱい出てくるんじゃないか。


ただの思いつきだったが、バンド名を政党名と思って眺め直すと、どうしてこんなに面白いんだろう? 「アジアン・カンフー・ジェネレーション」とか、「X JAPAN」とか、いろんなリアクションがあった。洋物も色々ありそう。「オアシス」とか。


小説を書いているとよく感じるが、分かっていることと出来ることとの間には、大きな距離がある。が、過去の自作を読み返すと、出来てしまったことが、何なのかよく分からないこともある。


総合格闘技は、00年代に最も集合知的な発展を遂げたスポーツだった。中心がないなかで、各分野からの技術的な知が持ち寄られて、ほとんど一大会毎に戦術が更新されていった。それは、明らかにweb2.0と同期的。動画やブログを通じて、選手だけでなく、観客の知識も随時更新され、遅れなかった。


桜の季節は短いけれど、あれだけの花を咲かせたあとに、たった数日で、あんなに緑の葉を茂らせることが出来るというのは、恐ろしいエネルギーだと思う。満開の桜も良いけれど、昔から、なんとなく葉桜の清涼感が好きだった。


僕の父は、健康そのものだったが、36歳のある日、突然心臓が止まって死んだ。僕が1歳の時。人間の心臓が、次の一拍を打つ保証はどこにもないというのが、僕の実存感覚の根本。


オメガのパーティで、生チャン・ツィイーを見る。声が可憐だった。隣の席が山田五郎さんで、初対面だったが、質問攻めで時計史のレクチャーをしてもらう。何でもよくご存じの山田さんだが、どうしてその中でも時計なのか、よーく分かった。時計をテーマにすると、語れる話題が多い


数年前に帰省した際、母から祖母が「あの子はちゃんと食べていけよるんやろうか?」と心配していると言われる。「なんで?」と訊くと、クラッシュ加工のジーパンを見て、ズボンを買う余裕もないのかとショックを受けたんだとか。ファッションだと説明したが、今回もやっぱり納得してない様子だった。


一度、実家の居間にクラッシュのジーパンを脱いで置いておいたら、いつの間にか、ほつれた糸が全部、糸切りバサミで切られていた。おばあちゃんの仕業(笑)。どうにも気になるらしく、今度は穴もふさいでおくと宣言された。今月、91歳になったが元気だった。


なぜ人間は、ある人のことは好きになって、別のある人のことは好きにならないのか。なぜ彼女は、彼を好きになって、自分を好きにならないのか。そこには常に、合理的には説明しきれない、一握りの神秘がある。何かそうした神秘を含んだことだけが小説のテーマになる。


『一月物語』の中に、「世界には、愛したいと云う情熱しかない。愛されたいと云う願いは、断じて情熱ではない筈だ」という一文を書いた。行動するためには、そう信じる以外にはない。情熱的に愛することは出来るが、情熱的に愛されることを待つというは、一種の消耗だろう。


それでも、Passion(情熱/キリストの受難)というのは、本当は「愛されることの神秘」に関わるものなのだろうと、このところずっと考えていた。だから「エリ、エリ、~」なのでは? マリアとマルタの話も、神を愛したいのか、神に愛されたいのかの違い。僕は昔からマルタが好きだ。


ショパンは、自作を披露する時には、毎回即興的に、まったく違ったスタイルで演奏していた。その意味で、ショパンの解釈は、自由であるべき。ただ、ショパンがもし、ポゴレリッチの演奏を聴いたら、ルバートで左手まで揺れることには苦言を呈しただろう。


ラ・フォル・ジュルネも無事、全日程終了。児玉桃さんの演奏で、アルカンの「海辺の狂女の歌」を聴く。タイトルからして凄いが、変人作曲家の面目躍如たる(?)素晴らしく変な曲。が、メシアン弾きでもある児玉さんの手にかかると、暗中に神秘主義的な光が差し込むようで、笑うのを忘れてしまった。


芸術において、型を破ること自体は難しくない。しかし、寄る辺のなくなったところで、その型破りを「これでいいのだ!」と自ら納得し、鑑賞者を納得させることは難しい。感覚的なものしか根拠がない時は特に。


それにしても、クラシックのコンサートに行くといつも思うが、楽章の合間は、咳をするための時間じゃない。静寂の中で前楽章の余韻と次楽章の期待とを楽しみたい。出る咳は仕方がないが、「念のため」としか思えない咳が多すぎる。


ポゴレリッチのように、この小節の、この8分音符、という拘り方を徹底すると、その分、楽曲の全体像はどんどん遠ざかっていく。すると、フォーカスが微視的になった分、全体のスケール感がアップするといった、逆説的な効果が生じる。巨視的な演奏家の方が、実はタイトな演奏に聴こえるのではないか。


その意味では、ポゴレリッチは結局、「微細なるものの巨匠」なのだろう。小説の場合、十年がかりの話を数ページにまとめたモーパッサンの短編よりも、数日の話を何百ページにわたって記したドストエフスキーの長編の方が書き方は微細だが、スケール感は大きいということがある。


スポーツ選手には、レベルアップしたい時に、「練習」が出来るという幸せがある。芸術家でも、演奏家などにはそれが可能だが、小説家は、実作の積み重ねを通じてしか進歩できない。風景描写が苦手だからといって、毎日、風景描写の特訓をする人はいないだろう。


これまでに何度か、テレビの密着取材のオファーをされたことがあるが、大体企画倒れに終わる。小説家は、ただひたすらパソコンの前にいるか、本を読んいるだけだから、まったく絵にならない。変化があるのは、打ち合わせとか、サイン会とか、そのくらい。「練習」という形で努力も見せられない。


出版関係者は、電子書籍化に関して、一生に一度、本を出してみたいというケースと、作家として食べていきたいというケースとを、ちゃんと分けて考えて欲しい。前者には確かに出版社は必要ないかもしれない。が、後者にはどうしたって必要。作家はとにかく、読書と執筆に時間を使いたいのだから。


言うまでもないことだが、作家が出版社に食わせてもらっているとか、出版社が作家に食わせてもらっているとか、そういう発想は完全に間違ってる。作家も出版社も読者に食わせてもらっているだけ。


明日(というか、もう今日だけど)は三島賞の選考会。選考委員になって三回目だけど、毎回、候補作の中に誤植を発見する。今回は、誤植とまでは言い切れないけど、校閲が見逃しているようなところを2箇所発見。勿論、選考にはまったく影響しない。自分の原稿だと、逆になかなか気がつかないが。


良いアイディアというのは、案外、誰にでもある。難しいのは、作品化すること。多くの人が理解し、感動する形にしようと思うと、また更に難しい。インスピレーションは、芸術創作にとって必要だが、それで十分ではない。


『決壊』は、背景のリアリズムに拘った小説で、場面によって都合良く嵐になったり、晴天になったりしないように、02-03年の『気象年鑑』を買って、作品内の天気を、全部現実の通りにした。一種の実験。おかげで、気象関連の本が出る度に、アマゾンからやたらとリコメンドのメールが届く。


「逆ギレ」の類語として「逆泣き」という言葉を以前に作った。泣きたいのはこっちなのに、相手の方が泣き出した、みたいな。別れ話を切り出された方じゃなくて、切り出した方が泣くとか。もしかしたら、男に多い現象なのかも。


少なくとも文化に関しては、20世紀まではガラパゴス化したものの方が世界に通用した。浮世絵も、ジャズも、マジックリアリズムも、いわばガラパゴス化の産物。ただし、情報技術の発展と共に、成熟期間と伝播期間とのギャップはますます小さくなってきている。マイナージャンルにも強みはある。


書籍の電子化で、出版社が自前で翻訳して海外のアマゾンなどで本を売る可能性について「中央公論」で話したら、平野は自分を育てた日本の出版業界を捨てて、 1人だけ世界的な作家になろうとしていると、どっかの出版社がHPで批判していた。どんな曲解をしたらそう読めるのか、不思議で仕方がない。


最近人と話していて、本当に恥ずかしいくらい簡単な固有名詞が出てこない。脳内の検索エンジンが情報量の増加について行けてない感じ。ネットみたいにキーワードから内容を検索するのではなくて、内容からキーワードを検索するという逆の方向だが。


小説の全体を見渡して、ダメなところを削ることは難しくない。が、「良いところ」も多すぎると相殺されて印象が薄くなるので、「より良いところ」を際立たせるためには、贅沢に切り詰める必要がある。これはもう、未練との戦い。


時々、「なぜ今、文学なんですか?」と訊かれる。はっきり言って、僕みたいな人間が生きてこれたのは文学のお陰で、そういう人は実際いるんだから、それでいいじゃないですか、思う。しかし、そこまでの愛情を全ての読者には求められない。割と本好きという人が今文学を読む理由はやっぱり必要だろう。


良くも悪くも自己主張が強いのがフランス人だけど、今回のナショナルチームは、ほんとにそのマイナス面を十二分に発揮していて、個人的にはかなりツボだった。フランス人は、愛すべき国民だと思う。


値段が高いものがなぜ高いのかは、大体曖昧にしか分からない。が、安いものが安い理由は、具体的によく分かる。そうすると、高いものがなぜ高かったのか、急に分かるようになる。――ワールドカップと何の関係もない、ここ数日の個人的な教訓。


『ザ・コーヴ』を巡る一連の騒動で、一番罪作りなのは、あれに「ドキュメンタリー映画」としてのお墨付きを与えた賞の審査員たち。受賞がなければ、制作者は、イルカを聖別している人たちなんだから、当然、ああいうプロパガンダ的な作りになるだろう、というだけの話だったのでは?


京都に住んでた頃は、宵山なんて人が多いばっかりで、全然行く気がしなかったけど、今テレビで中継を見てると、歩いてる人が何とも言えず羨ましくなる。京都は、メディアと相性がいい町だと思う。もちろん、実際に住んでもいい町だけど。


10年ほど、京都に住んでたけど、よく言われるように、京都の人から意地悪されたりしたことは一度もなかった。あれは結構、京都人自身の自虐ネタも入ってると思う。京都の人はいい人だと言うと、当人たちが、京都人がいかにイヤらしいかを力説することはよくある(笑)。


「広告」=広く告げる、という字義通りの意味で、横尾さんのポスターの強度は圧倒的。一つ一つが、どんなにボーッと歩いていても、絶対に目につくような作品で、1枚貼っただけでも、その空間が完全に支配されてしまうような作品が、800点も展示されている。こんなのも!という意外な発見も多し。


これまでに、ギャンブルで総額5億円負けているという、元大嶽親方のインタヴュー(『FLASH』)。相撲部屋の稽古の厳しさを語って、「毎日、壁に頭を1 千回もぶつけていたら、そりゃアホになりますよ」とのこと。そうだろうなあと、うなずかざるを得ない、ものすごい説得力(笑)。


方向音痴が書く小説と、そうじゃない人が書く小説とでは、描写やプロットの運び方が、かなり違うんじゃないか。一人称でうまく書ける人は、方向感覚がいいんだと思う。方向音痴には、三人称の方が向いているというのが、個人的な実感。善し悪しでなく、空間認識と情報の取捨選択方法のタイプの違い。


国家は、たった一つの政治体制しか選べないという意味で、その関係は結婚に似ている。アメリカは、初恋の共和制と結婚して、一度も離婚しなかった。フランスは、王政と別れたあと、共和制と再婚して、四度も別れて、四度ともヨリを戻している。さすがに五度目となると、共和制自体も大分変わったが。


日本の場合、戦後の民主主義との結婚は、いわば「見合い」だったが、だからといって必ずしも相性が悪いわけではなかった。前の相手とは半ば強引に別れさせられたが、見合いの相手が、大正時代に恋い焦がれていた相手と似てないわけではなかった。ドイツのように結婚後に酷い相手だったと判明した例も。

 

2010-07-21

【ドーン】

できるだけ明るく、希望を持ってものごとを考えることです。なんとかなるという気持ちがあって、はじめて、なんとかしてみせるという強い気持ちが生まれてきます。


自分ひとりの努力だけで叶う夢なんて、決してありません。


悩みがあるなら、相談するんだ。ただし、誰と問題を共有すべきかを、よく考えることだ。


誰に対するプライヴァシーなんです? 一方にパブリックな生活があって、もう一方にプライヴェートな生活がある。そんな古代ギリシアみたいな二分法、今どき誰が信じてます?


正しいことを誰かが語っていると感じた時には、決して言葉だけを記憶してはならない。その人間の顔と声とを必ず一緒に記憶するのだ。そして、何度でも思い返しなさい。その言葉がどんな顔とどんな声とで語られたのかを。


写真で静止的な美が極め尽くされてから、映画の時代になったみたいに、動かないものの時代のあとには、必ずそれを動かす時代が続くんです。


フィルムからデジカメへと、写真の撮影機会が一般に増えていったのと、整形手術が広まっていったのとは、完全に同期的な現象です。


船体に亀裂が走った時に、そこを叩いて壊そうとする馬鹿はいない。しかし、人間関係の場合、必ずしもそうした抑制が利くわけではない。分かっていて、亀裂を更に広げようとするかのような言動をつい取ってしまうのが人間だ。深刻な感情的衝突が起こった際には、すぐにそれを、船体そのものの亀裂としてイメージすべきだ。抜本的な処置は二の次で、とにかく、亀裂の箇所がそれ以上広がらないように押さえて、落ち着いてから十分な修復に取りかかるべきだ、と。


そもそも人間の子供が、両親に似ていて、そのために育てるということに熱心になれるのは、人間の発生をデザインした何者か大いなる存在が、やはり気が利いていたということなのだろうか?


何が結局のところ、監視社会の恐怖なのか?――いいですか、それは、単に見られるということではありません。情報の"非公開の独占"と"恣意的な活用"。それこそが恐怖なのです。国家が防犯カメラの映像を使って、個人の生活を好きなようにできるという、そのことです。


恥というのは、どことなく共感を拒むものだ。そして、告白に何の重みも与えない。なにか馬鹿な、滑稽なことをしたと告白する。その人間は、馬鹿な、滑稽な人間だと思われて終わりだ。立派という印象はないだろう。


君が負う社会的な義務と、君自身が大切と信じることとの間で、ギリギリ立って歩いていける足場をデザインしなければならない。美しくなくてもいい。珍妙なデザインでいいんだ。それを世間がどう評価するか、それは委ねるしかない。今ある大切なものを出来るだけ壊さないように、君の中のディヴィジュアルの構成をデザインしたまえ。


どんなに巨悪に見えようとも、それは徹底して、具体的に突き詰めて、ミもフタもないレヴェルにまで解体すべきです。そう出来ない悪など、この世界に存在しません。その果てには必ず固有名詞を持った個人が存在し、その個人を悪へと駆り立てた分人が発見出来るはずです。


私は愛国心は人一倍強いが、信仰は薄い。神がもし、アメリカに攻撃を仕掛けてくるなら、全力で戦う。神がもし、世界を亡ぼそうとするのなら、アメリカ人として、全力で戦い抜く! 神がもし、アメリカの敵であるのなら、天国に核ミサイルを打ち込むことだって辞さない!――それが私という人間だ。


何もせずに、平和な世界で富を築き、良い家に住み、美味いものを食べ、ふしだらな恋愛を謳歌し、そうした享楽にもそろそろ飽きて、"世界平和"についてでも考えてみようかと思い立った頃に、ネットで調べて、あとから我々の必死の仕事を、ああだ、こうだと論評する! 私は、観念的な平和主義者というのが、大嫌いなんだ。一番見栄えが良くて、一番気楽な人間! それが彼らだ。――他方で私が尊敬するのは、大義のために命を賭けられる人間だ。


30年代に入って、完全に戦況が膠着状態となった後、ジャングルでのゲリラ戦で、アメリカ軍は恐ろしいほどの被害を出していた。なぜか? 非人道的だと、あらゆる兵器、あらゆる戦術が制限されていったからだ。他方で、悪はいつまでも悪だ。無制限に、何でも許されている。連中こそ、どれほど悪辣な手段を用いて、アメリカ軍を攻撃してきたか! 正義のための戦いを、正義にかなった方法で遂行する! そんな戯言のために、現地でどれほど尊いアメリカ人の命が失われたか、君は分かるか! ん? とんでもない矛盾だ!


戦争で儲かるなどと言ってるバカ者どもは、二十世紀で時計が止まっておる。


キリストならば、五つのパンと二匹の魚とで、五千人の群衆を満腹させる奇蹟を起こすことが出来るだろう。しかし、我々はただの人間だ! 矛盾の中で、どうにかその八万倍以上もの国民を、食べさせていかねばならん!


軍需産業を潰せなどという、ティーンエイジャー的発想は亡国の仕業だ。


人間は、自分だけにしかできない正義のために生きるべきではないのか?


戦争が徹底的に反省されるのをいつも邪魔するのは、戦死者の名誉の問題だ。無駄な、悪しき戦争だったとなると、そんなことのためにあの子は死んだのかと、遺族はやりきれない気分になる。無駄死にだったのか? 悪事に手を染めていたというのか? ヴェトナムでもイラクでも、結局そこが難しかったんだよ。


悪党とは、一体、誰ですか? 悪とは、誰のどういう態度のことですか? 驚くほど、固有名詞が出てきません。善か、悪か。――まるで、中世のマニ教徒です。


紛争は原則的に、当事者間では解決しません。それは、力による不当な勝敗を決するだけです。第三者の関与が必要です。問題というものは、常に第三者に対して、透明で、開かれている必要があります。


「悪を神秘化すべきではない、我々自身の善を神秘化しないために」


心を躍らせた子供たちはどうなる? こんな生々しい内容を、君は死んだ自分の子供に読ませられるのか? どうなんだ? 他人の子供だったらいいのか? なぜそのことをちゃんと考えない? 君は、ミッションに具体的に携わった関係者への説明、応援してくれていた人に対する説明、納税者に対する説明、この話に単にゲスな興味を持っているだけの人間に対する説明を、メディアの特性も、表現方法も考慮せずに、みんなゴチャゴチャにして、爆弾を投げつけるようなやり方で叩きつけようとしている!


人間は、社会に有益だから生きていて良いんじゃない。生きているから、何か社会に有益なことをするんだ。違うか? 国のために何かをしたから生きていていいなどと、誰が言える? 戦争に行って、命を賭けたからアメリカ国民などと誰が言える! 宇宙空間でバクテリア一匹見つけただけで大騒ぎする我々が、人間というこの複雑にして精妙な生き物が、ただ生きているという事実を、なぜもっと尊べない?


世界中どこでも、暴力というのは、ゴキブリのように暗いところを好み、明るい陽射しの下で、人に見られることをこそ嫌うものだ。


白日の下にさらして、人間の関心の光で問題をすっかり殺菌すべきだった。


あり得たかもしれない関係に、気持ちが引きずられている。結ばれた関係よりも、結ばれてもおかしくなかったのに、結ばれなかった関係のほうが、より強く記憶には痕を残すらしい


水と空気。ただ地球だけにしかない豊潤な青。それは、子供がこっそりと机の引き出しに収めて、いつまでも大切に仕舞い込んでおきたくなるような、愛らしさと珍しさを兼ね備えた、誰にも渡したくない、どこにも見つからないような、神秘的で、郷愁に満ちた輝きだった。


四十億年以上もの時間をかけて、気がつけばこうなっていたという、その完全な偶然任せ! 呆れるほど楽天的な結果論的美! あらゆる我執から、清々しいほどに自由な時間への信頼! 目にも見えないほどの分子の結合から積み上げて、その表面を晴れやかに覆い尽くす大気に至るまでの誇大妄想的な運動の連鎖!


何もかもが、このたった一つの空間の力に引き寄せられている。人と動物との別を問わず、生物も無生物も関係なく、同じ一続きの場所を得て、重力を介して相互に交わり合っている。もし気まぐれに手を離されれば、たちまち、無限の死の世界へと放り出されてしまうような孤独の最中に、特別にそれを意識させられることもなく、あらゆる生命の活動を許し、あらゆる無機物の存在を受け容れながら、ついに一個の自らであり続ける巨大な複製不可能な生命! 地球と呼ばれる完璧な時間! その表層的な器の中で、独創性の限りを尽くして、ありとあらゆる生物が誕生しては、束の間栄えて絶滅してゆく。――人間たち! その極最近になって登場し、異様な繁殖力で「全地の表」を覆い尽くして、その場所を、神が自分たちのために準備したと錯覚しながら、架空の君臨に酔い痴れてきた、愛すべき、滑稽な人間たち! その経営が任されるには、あまりに無力で、あまりに無知で、あまりに卑小な人間たち! しかし、彼らは、確かに他の生物たちとは違って、一個一個の命に名前をつけ、ひとりの人間が死ぬことが、別のひとりの人間が死ぬこととは、絶対に違うことだと知っている唯一の生物ではなかったのか? 10万戸の個体が死滅することと、10万人の人間が死ぬこととは、まったく違うことなのだと、初めて理解した、地球で最初の生命ではなかったのか?


生まれながらにしてアメリカ人ばっかりの国だったら、こんなにうるさく愛国心、愛国心って言わないと思う。移民の国の歴史だよ。

 

2009-6-11

【中央公論】

『決壊』を書くときに、自分なりに悪の問題について考えようと思っていました。しかし、小説家としてやればやるほど、取り組み甲斐がないのが、実は悪の問題じゃないかという気がすごくしたんです。悪という問題は、神秘化してしまうことが一番よくないんじゃないかと思うんです。悪というのは、いくつかの問題が複雑に絡み合っているので、できるだけ即物的にアプローチしていくほうが現実的にはいいはずなんです。しかし、悪のわからないところを神秘化して、それに取り組む作家も善の側の人間として神秘化される、あるいは悪に理解を示す人間として神秘化される。これが一番よくない。精神医学や社会学など、さまざまな分野が具体的に悪の問題にアプローチしている中で、文学が神秘的な悪というものをある種捏造して文学のテーマにするというのは、何かすごくつまらない気がしました。


僕は、殺人事件に関して赦しの問題が一番難しいのは、赦す本来の主体がもうすでにいないということだと思うんです。


やっぱりこの点が、殺人に関して赦しの問題を一番難しくしているところだし、結局、誰であっても死者の声を代弁することはできない。

 

2008-12-25

【アキハバラ発】

レイバー(労働)とワーク(仕事)という古典的な区分は、実感として今もあると思います。自分が積極的にやりたいと思うことに挑戦でき、自己実現しながら社会から認められているという感覚があれば、仮に給料が安くても意外とみんなハッピーにやっていける。


どんな理屈を説いても「それはあなたのコミュニティの論理かもしれないが、自分には関係ない」と答えるような他者が登場したときに、どうやってコミュニケートするのか。


近代以降、文学は、現在の社会システムが排除しているもの、汲み取りきれないものを、様々な方法で表現してきたわけですが、どんなにそれがショッキングであったとしても、芸術というのは結局のところマイノリティの声であり、それを読者がプライヴェートに受け止めることに意味があったと思うんです。しかし、今はどんなに過激なことでも、それを大っぴらに回収してしまうような場所がネット上には準備されているし、リアル世界のテロのインパクトは、他方で社会を記号を通じて動揺させるという文学の戦略を相対化している。


僕は、小説の起源として、プラトンがソクラテスの死を語るところから哲学を開始し、新約聖書がキリストの死を語るところからキリスト教を開始したという事実に注目するんです。どちらも、当時の社会によって死へと至らしめられた師の「死体」を、弟子が、言葉の形で社会に投げ返す行為として書かれている。

 

2008-12-05

【決壊】

神とは、人間の無力さの一表現だ。その輪郭の結ばれるところが、正確に人間の限界となっている。


神が死んだからといって、都合よく悪魔まで死んでくれないのは、この世界のまったく残念なところだね。……尤も、神など最初から存在しない。――神の全能性。それは要するに、何だね? ん? 人間の不可能の、ありとあらゆる裏返し。


天国などという場所はどこにもない。地獄もだ。あるわけがない。みんなでっち上げだ。……分かるね? そんなものは白痴の信仰だ! 死ねば一切が終わる。この世界の不遇に黙々と耐えてみたところで、何の報いもないのだ! 善行に勤しもうと、悪の限りを尽くそうと、同じことだよ。


汚れ一つない、完全な白の空間に人間を一人放り込んで、監禁してみたまえ。彼は三日ともたずに確実に発狂する。しかし、そこにほんの些細な一点の染みさえ見つけられれば、彼は正気を保っていられるのだよ。――人間は神にはなれない。


眠りが死の象徴っていうのは世界中で共通してるのかもしれないけど、その前に必ず入浴があるっていうのは、そんなに一般的じゃないよ。日本人は、そういうところで、手が込んでるんだね。母親のお腹に回帰したような余韻に浸って、布団に入るなら、死ぬっていうより、自分がこの世界に出現する前のゼロの状態に戻るみたいな感じがするかもしれない。


暴力の衝動っていうのはね、善悪の彼岸ですよ。どんな些細な感情だってビル一個吹っ飛ばすのに足りないということはないですよ。


母親という一個の人間の内部に、最初の場所を許されていた。これは、人間の生が始原に於いて抱えている根源的な条件だよ。人間は、どんなに顔を背けてみても、この最初の寛容さの恩恵を否定出来ないんだから。


【一月物語】

奈何なる言葉も、自然の最も深遠な美に到達した瞬間には、悉く無力となるであろうと信じている。その瞬間には、詩は決して生まれないであろうと信じている。

 

2008-11-19

【新潮】

三島由紀夫という作家は、天才を自覚し、自ら天才らしく振舞うことを好んだ数少ない本物の天才であった。その作品は古典となることを予定して書かれ、その通り古典となった。我々は、三島を読まねばならない。美点に於てしか学ぶところのない作家は凡庸だ。彼等の作品は、ただその美点が成功を収めた時にだけ読むこととしよう。天才は欠点に於てすら多くを語る。是非とも三島の「全集」を手にしよう。三島は依然として一つの事件である。同時代に生きた者のみならず、あとから遅れてやって来る者達をも永遠に巻き込み続ける一つの眩い事件である。


【やがて光源のない澄んだ乱反射の表で……】

人間が死ななければならないという事実は、一体、何なのだろう。どう考えたって、まともな説明なんかつくはずないんだ。だったら、何か失笑するしかないような馬鹿らしい理由で、その無意味さを埋めてみせるしかないじゃないか。

[ 平野 啓一郎 ]