[榊東行の言葉]

2009-6-7

【共同体の殺人】

おそらく今の東京で渋谷ほど混沌とした街はないだろう。休日の新宿や銀座もたしかに混みあうが、街の区画や地下道などが発達していることもあって、渋谷のように歩道から人がはみ出して、それでもお互いに肩をぶつけ合って歩かなければならない状態にはならない。飲食店にしろ、有名店が多い新宿や銀座に比べ、渋谷では安さだけが取り柄の無数の小さな店がひしめき合い、客を奪う。


捜査というものは個々人の限りなく意味のない徒労の積み重ねの上に成り立っている。


確率が限りなくゼロに近いミクロの徒労が蓄積されて、合成されて、ある程度の確度を持った捜査というマクロな総体がある。しかし捜査が意味のある確率を持ったものとして映るのは、特別捜査本部で全体という虚構体を見渡すことのできるほんの数人だけだ。


党内ではろくに党改革に汗を流そうともしないくせに、マスコミでは派手な党批判をぶち上げるスタンド・プレーが世間でもてはやされ、選挙のためにそういうスタンド・プレーが得意な若手を要職に抜擢すると、されに彼らを真似する若手議員が続く。


メディアを通じて肥大化した好奇心だけが、その存在を大きく見せるが、それでも現実の社会を埋め尽くしているのは無関心と無表情と匿名。


民主主義では、体験を共有した少数の者が、ばらばらな多数をうち破る。


都会の人口は膨れ上がるとともに「つながり」を喪い、巨大な無党派層という、曖昧でぼやけた、そして無責任な集団へと転化し、日本の政治から方向性や意志を喪わせた。


思想や理念などの空虚なもので人を束ねられる時間は短いのだ。


初期の政治思想家たちがすでに看破していたように、多数決原理を採る民主主義でものを言うのは数ではなく結束なのだ。


アメリカ帰りの経済学者や、都市部選出の若手議員たちは、農村部の住民とそこから選出された政治家たちが長年かけて培ってきた日本の政治システムを、政官業の癒着体制だとか、市場原理に反するといって批判する。しかし、こういう地方優位の政治状態を招いたのは他でもない、都市部の住人たちの非協調と怠慢と気まぐれである。団結し協力したものたちが勝つ――古代から当然の前提とされてきた法則に地方の住人たちはきっちり従っただけだ。市場主義が貫徹していると言われるアメリカでも、政治では地域・社会レヴェルの各種の共同体――トクヴィルのいう「中間組織」――が機能することで、民主主義は動き、国家がばらばらになるのを未然に防いでいるではないか。自由の中で自主的に義務を守ることが協調であり、自由の中で義務を放棄することは自由ではなく怠慢と無責任に過ぎない。


今の日本では、顔をさらしたり、名前を出したら何も言えないようなひ弱な『個人』たちが、仮面と匿名で身を隠しながら得体の知れない集団を作り、それが社会や政治に大きな影響力を持って、時代を変えようとさえしている


ケインズがハーベイロードの前提で念頭に置いていたのは、イートンやハーロウからオックスブリッジに行って、イングランド銀行とか英国大蔵省で働く連中のことだ。それと東大法学部出て公務員試験受かっただけの木っ端役人を並べても哀れというかなんというか(笑)


司法試験や公務員試験みたいな脳味噌の腐り具合を調べるだけの試験に受かろうと受かるまいと、そいつの知性や能力とはなんの関係もないよ


外務官僚時代の原敬が、外交官試験の採用基準に容姿と身長を加えたという有名な話があるけど、当時はああいう貧乏人出身の男にもそんな気概と率直さがあったんだな。


人間の意志などというものは、情熱などというものは、自立性などというものは、大抵の場合、社会性の卑しい投影に過ぎないのだよ。つまり、幻だ


マラトンの戦いでペルシアの数倍もの大軍をアテネの重装甲歩兵が破ったのは、後世の頭の悪い史家が言うような奇跡でも何でもなく、ごく当然で当たり前のことだと思わないか。だから、勝報を告げにアテネまで四十二キロを走って死んだ若者は、あれも後世の小説家のでっち上げらしいが、英雄でもなんでもなく犬死したようなものだ。俺がアテネ市民の妻だったら、夫を鼓舞し戦場に送り出した後に、祝杯を上げて飲んだくれていただろうよ。そして、単純な英雄心と自己愛に身体と脳を蝕まれて四十二キロ延々と走ってきた軽薄な若者に対して、そんなわかりきったこと、わざわざ教えてくれなくてもいいのに、と言ったに違いない。


歴史っていうものはすでに歴史になった時点で、出来の悪いフィクションなのだから


経済なんてしょせんは人間のストレートな欲望を満たすものに過ぎない。放っておけばなんとかなる。だから大蔵や通産に行くのは三流の人材でいい。頷き君でも大蔵官僚くらいなら務まるだろう。裁判官みたいな受け身の職業は愚鈍なガリ勉に任せておけばいい。お受験君で十分だ。でも、警察だけは奴らには無理だ。警察は、この国を創るんだよ。


社会や政治や経済というものは、突き詰めれば、人と人とのつながり方のパターンだからです。考えてみてください。市場経済も、共産主義も、資本主義も、民主主義も、専制君主制も、農耕社会も、狩猟社会も、すべて人間と人間との異なるつながり方の言語的なスケッチでしょう。つながりが喪われた途端に、社会も政治も経済も、消滅する。だからもし人と人とをつなぐパターンが変わるようなことがあれば、それは革命そのものなのです。


革命はね、小さなときが一番難しいのですよ。マクロな動きはミクロの蓄積の上に成り立っているのですから。いったんうねりが大きくなって、街中で暴動が起きれば、貴族など支配者たちへの私刑が始まれば、顔や名前のない連中が動き出せば、あとは流れに任せればいいのです。逆に、大きくなっても頓挫してしまうような革命――パリ・コミューンや70年代のアメリカの市民権運動なんかがそうですね――は、最初から成功しようのない、必然性のない熱狂に過ぎないのですよ。でも革命は必ず、小さな、私たちが見落としてしまうような個人的な事件から始まる。その段階が一番難しいのです。どんなに大きなエネルギーや意志や欲望を秘めた革命でも、そこで潰れてしまうものが多い。

 

2009-2-14

【国家の衝突 連載第72回】

何を狙ってる? ウォールストリートの卑しい職業から、デトロイトに転身か? やめておけ。お前みたいな奴は、いくら金を持っていても、デトロイトじゃ軽蔑される。何も作らないで金を儲けてる奴は、あそこでは、ライン末端の労働者以下としか見なされないんだ


労働者から経営者まで、互助精神に富んだ美しい国はもうここにはない。かつての本田宗一郎や中井健太郎のような、目を輝かせた技術者たちも消えた。残ったのはアメリカのミニチュア版みたいな国――いや、アメリカの卑しい部分だけ集めた卑しい国だ。投資銀行で巨額の富を稼ぐような者がもてはやされ、そのくせ、アメリカの支配階級が培ってきた美徳も、連帯意識もない。国が崩壊するというのは、こういうことだ。


【国家の衝突 連載第66回】

市場や政治的な権力闘争などによって人間が合理的になればなるほど、人間の行動は、単細胞生物や素粒子の行動に近づく。


ロータリーエンジンは、その技術の質というよりは、それが日本の小さな会社に独占されているということだけで、危険過ぎる技術だ。


【国家の衝突 連載第61回】

国際交渉は、最初に議題――議論が行われる土俵――を設定してから、その土俵の上で激しい駆け引きが繰り広げられる。だが、実際には議題が設定された段階で、交渉の勝敗は半ば以上ついている。その典型例が、CO2排出を巡る地球温暖化防止京都会議において合意された京都議定書である。会議が行われた時点で、CO2排出対策が先進諸国の中で圧倒的に進んでいたのは日本だった。だから、例えば対GDP比でCO2排出の上限を定める、という形で議題を設定すれば、日本にとっては楽なハードルが設定され、CO2対策が最も遅れているアメリカにとっては厳しいハードルが設定されるはずだった。しかし実際には、1990年などを基準年にして、その時点から削減すべきCO2排出量などの割合を定める、という形で議題が設定された。もちろん、すでにCO2排出対策が進んでいる日本企業が追加的に1%のCO2を削減するコストと、対策が遅れているアメリカ企業が追加的に1%削減するコストとでは、圧倒的に日本企業の負担の方が大きい。つまり、そのような議題が設定された時点で、日本はアメリカに対して交渉に負けたのである。


また、ヨーロッパの中では、CO2対策が進んでいるドイツやフランスのような国と、全く進んでいない東欧諸国とに二極分化していた。例えばドイツやフランスが単独で京都議定書にサインすれば、京都議定書が課す基準は日本と同じような高いハードルとなっただろう。しかし、ヨーロッパはEC全体で京都議定書にサインすることが許された。いわゆる<どんぶり勘定>である。その結果、東欧諸国でCO2排出量を削減すれば、フランスやドイツなどはほとんど削減せずに済むことになった。ここでも、EC全体で排出量を測る――という議題設定を行った段階で、日本はヨーロッパに負けたのだ。


マスコミで報道される国際交渉は、たいがい議題が設定された後の細かな駆け引きである。京都でも、90年を基準とした削減幅を巡って、激しい交渉が繰り広げられた。しかし、その前の議題設定の段階で、勝負は半分以上ついている。そして、アメリカやヨーロッパなどは、その段階で、日本など新興国に対して圧倒的に優位に立っていた。


【国家の衝突 連載第58回】

これが、霞が関の論理だ。見栄や建前にばかり目が行き、政策の中身はいつも二の次になる。最大の敵は相手国ではなく他の省庁。いくら良い政策を打ち出しても評価されず、大臣や上役に出番を作ったり、他省庁を出し抜いた者ばかりが得点を稼ぐ。インセンティヴは完全に狂い、視線は国民ではなく省内や他省を向き、それを修正する手段も持たず、有能な若手は腐る――。


【国家の衝突 連載第55回】

経済学者が想定する<合理的>な人間は、一銭でも高い報酬の仕事にはすぐに飛びつき、選挙では一銭でも多くの便益を与えてくれる政治家に投票し、工場で経営者が少しでも目をそらせばすぐに怠業するような人間です。だけど、そんな人間は人間以下の、いわばクズです。


愚か者であること、不合理であることこそが、人間としての証であり誇りなのじゃないかと思っています。――このことは、例えば好きな映画や小説を思い浮かべれば簡単にわかる話です。人を感動させるものは常に、不合理な行動や情熱で、合理的な行動には、美しさも人間らしさも人を感動させる力も、ありません


【国家の衝突 連載第54回】

ここ何年か、グローバリズムを、あたかも歴史上類のない革命のようなものとして吹聴する学者やジャーナリストが多い。彼らの中には、グローバリズムやIT革命がこのまま直線的に進み、国家や国境さえもやがて無意味化して、やがて世界は統合される、とまで言い切る者もいる。だが、少しでも真面目にデータを検証すれば、過去にも、今以上のレヴェルでグローバリズムが進んだ時期があったことにすぐ気づくはずだ。その反動が、二つの世界大戦であり、大恐慌であり、経済のブロック化だった。


中高年労働者の雇用が企業によって守られた結果、若者の就職率が落ち、最も学習能力が高い時期に、彼らは体系的な職能訓練を受けられずに、日々をアルバイトで食いつないでいる。そのしわ寄せは、将来必ず来る。


もちろん、アメリカ軍も運河の重要性は認識していたから、運河が視界に入る地域に住む住民の身元は徹底的に洗った。それでも、その日本軍スパイを簡単には割り出すことはできなかった。なぜなら、そのスパイは大戦の何十年も前にそこに住みつき、そこで結婚して子供を産み、現地の住民に完全になりきっていたからだ。パナマだけじゃなく他の要衝地――ハワイやグアムなどにも、そういった日本のスパイは多数もぐり込んでいた。


【国家の衝突 連載第53回】

これじゃあまるで、政治学者の言う<バプチスト=マフィア連合体>だ。禁酒法の時代、法律廃止に最も強く抵抗したのが、キリスト教徒の中でも特に敬虔とされるバプチストと、禁酒法の裏で酒を横流しにして利益を得ていたマフィアだった。そして両者は、その思想・信条が全く異なるにもかかわらず、禁酒法廃止を防ぐべく連携した。政治は所詮、権力と数を巡る野合だ。この政治学用語は、そのことを象徴的に示している。


【国家の衝突 連載第52回】

軽薄で、卑しい時代なのだ。そして、何も解決されない。霞が関も例外ではない。この世界の論理では、いかにIT革命論や財政拡張主義の根拠が怪しかろうと、それに乗じて自分の課の予算を増やした者が成功者とみなされる。だから、ネットバブルが弾けても、財政拡張主義が破綻しても、ろくな分析もせずにIT革命を声高に主張した者たちの責任は問われず、勝者たちは年初の美酒に酔う。こうした無責任で卑しいエコノミストや政治家や官僚たちを簡単に批判することはできない。日本というシステムが、彼らにそう振る舞うようにインセンティヴ付けしているからだ。だから、そこで損をする誠実な人間は――ただの愚か者でしかない。つまり、日本のシステムによって、真摯で誠実な人間は、ただの愚か者に変換されるのだ。


【国家の衝突 連載第48回】

時代の流れに乗って、効率的に金を稼ぐ仕事にプライドはいらない。格好良い仕事をするにもプライドはいらない。そこで必要なのは頭脳――頭の良さと、計算だけだ。


【国家の衝突 連載第47回】

国家というものは、人間が創り上げた醜くて脆弱な虚構物だ。グローバル化が進むにつれ、それは民主主義過程を通じ、ますます人間的な体臭を臭わせるようになっている。


【国家の衝突 連載第46回】

国際会議などに出ると、そのメカニズムがよくわかる。昼の会議で途上国の貧困問題について語り合いながら、夜はブラックタイのパーティで、キャビアとクラッカーをつまみながら、シェークスピアやデカメロンのレトリックを使った会話だ。そこに、お勉強だけできて教養のない日本や韓国の官僚などが加わろうとすると、相手に気づかれないように、みんなでさんざんからかう。そういう世界だ


【国家の衝突 連載第45回】

アメリカが競争力を持っている産業は、どれも初期の段階では、国防総省が巨額の国防予算を投じて育成した産業だ、ということだ。今では自由と繁栄の象徴のシリコンヴァレーやカリフォルニア全体も、実際には軍需産業の集積地だ。コンピューターの第一号機は空襲予知器として開発された。


産業競争力調査を定期的に発表し、産業に多額の資金を注ぎ込んでいるのは、商務省ではなく国防総省なのである。


アメリカという国は、軍事とか国防とか安全保障といった隠れ蓑の中で、経済や産業にさんざん介入してきた国家だ。日本は産業主義国家、アメリカは自由と競争の国、というイメージも、アメリカによって巧妙に仕組まれたプロパガンダだ。


秋が訪れる度に、思うことがある。ニューヨークには緑がない、だから紅葉もない。


【国家の衝突 連載第43回】

デトロイトを崩壊させたのは、日本車の輸出攻勢でも経済不況でもなく、デトロイト自身が作り出す自動車と人種差別だという。自動車の街と言われるだけあって、デトロイト市周辺では高速道路の整備がいち早く進んだ。その一方で、60年代に公民権運動が高まりを見せ、スクールバスの導入によって、住んでいる地域が異なる白人生徒と黒人生徒を同じ学校で学ばせようとする政策が実施された。そして、白人は郊外に逃げた。スクールバスが追いつけないほど遠くに逃げた。自動車を持つ彼らにとって、高速網が発展すれば、もはや都心に住み続ける必要もなくなったからだ。その結果、市の北方を走るシックス・マイル・ロードを境に、それより南は黒人の縄張り、それより北は白人の縄張り、という暗黙の了解がいつの間にか生まれ、スクールバスもその道路を越えることはなかった。貧民ばかりが残された都心部はスラム化し、地域コミュニティは破壊され、一方では、北西部のブルームフィールド・ヒルズのように、住民一人当たり所得が全米一の郊外都市も生まれた。新たなWASPコミュニティもそこで生まれ、発展した。税収不足の都市部では、警察官も満足に雇えず、毎日三人以上が撃ち殺される。それに比べ、ブルームフィールド・ヒルズなどでは、警察官が自転車でにこやかに市中をパトロールし、中学生が万引きで捕まった事件が一面を飾る。これが、日本人が知らない<地方自治>の残酷な姿だ。


こうして、自動車によって栄えた街は、自動車によって人種が分断され、コミュニティが破壊され、自動車によって崩壊した。そして一方では、<新天地>が築かれた。自動車の街が、アメリカで最も深刻なスラム化と都市崩壊に襲われたのは、偶然ではなく必然なのだ――。


【国家の衝突 連載第40回】

国家というものが、人を甘やかし、弱者を増長させ、卑しくさせている。


ヘンリー・フォードは、労働運動をマフィアを使って厳しく弾圧するなど、保守的な言動でよく知られている。だが彼は、労働環境の改善にも熱心だった。


【国家の衝突 連載第37回】

国際会議で、どの省庁がどの順番で発言するかは、日本の官僚たちにとって最重要事項だ。メインテーブルに座る席順、発言の割り振りなどを巡って、交通経済省、外政省、財政省、などの国際官僚たちは、連日のように、深夜まで激しい言い争いをする。


【国家の衝突 連載第34回】

マスコミとかでアメリカを手放しで賞賛しているような人たちは、みんな、数年だけアメリカの大学や高級住宅地で過ごして帰ってきた学者とかビジネスマンの人たちばかりでしょう。アメリカは、学者とかエリートビジネスマンとか、インテリ階級が気持ち良く暮らせるように、他がすごい犠牲を払って支えている国だと思わない? だから、アメリカの一番良いところを見て、それと日本を比べるようじゃあ、現実離れした、ただの評論家よ


馬鹿な人の心を読むのは大変なのよ


利口な人の行動って、簡単に読めるのよ。お金を儲ける。美味しいものを食べる。良い家に住む。私は家でパグ犬を飼っているけど、すごく合理的よ。餌をもらえば喜び、それが美味しければもっと喜ぶ。寒いときに暖かいベッドに入れてもらうと喜ぶ。餌をくれる人のことを一番大事にする。それでも犬だと、飼い主に対する愛情とかあって、不合理なところもあるのだけど、下等動物なんてもっと合理的でしょう。


馬鹿だから、不合理だから、人間なのよ。同じ人間でも、馬鹿さの度合には相当差があるけど。だから、最近の新聞とかで、日本の会社とか経営者が不合理だ、とか批判しているのが、私にはわからない。合理的になる、っていうことは、私にとって、退化することのように思えるから。


【国家の衝突 連載第33回】

欧米の都市の場合、美しい街並みを維持することは市民の義務と考えられ、建物の外観には厳しい制約が設けられる。その代わり、個人が決定権を持つ内装については、各人が自由な趣向を凝らす。日本では、それが完全に逆になる。


【国家の衝突 連載第31回】

環境規制は実質的に貿易障壁として用いられるようになる可能性がある。


公共心とか、国家への忠誠なんていうものは、支配する者が、支配を永続させるために考え出した概念さ。WASPのような支配者は、自分が得をする現在のシステムを維持したい。だから、多少の自己犠牲を払っても、システムに反乱を起こしそうな連中に恩恵を施してやるんだ。システムが維持されさえすれば、そんな犠牲は十分に元が取れるからな


【国家の衝突 連載第29回】

俺たちがこれから向かい合うのは、国家と国家の衝突なのだろうか。それとも、国境を越える強者たちと、国境にしがみつく弱者の群れの衝突なのか、あるいは古典的な、資本と労働との衝突なのか――。


おそらく誰もわかっていないだろう。それでも政治的な衝突は繰り返され、どの方向に弾を撃つべきかもわからないまま、人々は闘いに参加し、自らの利益を最大化しようと、ピストルを振り回す。


【国家の衝突 連載第26回】

外資系投資銀行の連中なんて、日本では大きな顔をして、日本のシステムや銀行員を小馬鹿にしたりしてるが、彼らが社内でやってることと言えば、本社のアメリカ人の意向と日本の取引相手とをつなぐだけだ。要するに、本社の連中にしてみれば、奴らは現地採用の通訳・営業要員――小間使いだよ。


1910年代は、現在よりグローバル化が進んだ時代だったが、世界経済が崩壊して、二つの世界大戦が起こった。あれから、政府は肥大化し続けている。だから、きっとまた、何かが起こる――


【国家の衝突 連載第25回】

アメリカがバイに持ち込む――。あり得ない話ではない。WTOで勝てないと見れば、バイで強引に押し切ろうとするのが、連中のいつもの手だった。こういうのを官庁用語では<強姦>すると言う。日米経済関係の歴史は、いわばアメリカによる日本の強姦史だ。

【国家の衝突 連載第24回】

五年ほど前になるだろうか。日米両国は自動車を巡って激突した。恐らく、短期間にあれだけ日本のことがアメリカのマスメディアに取り上げられたのは、第二次大戦以来だろう。当時のUSTR代表が、これもまた当時の交通経済大臣の喉元に竹刀を突きつけてポーズを取った写真は、全世界の主要紙のトップを飾った。表面の華々しい経済交渉の裏で、CIAやNSAが暗躍し、誰かしらが作為的に捏造した情報が日米間を走り、国内外で政治的闘争が繰り広げられた。交渉の最終段階では、利害関係があまりに複雑に絡み合い、誰が敵で誰が味方かも見分けがつかなくなった。


【国家の衝突 連載第23回】

ウォール・ストリートでの一年は、他での五年分の体力や知力を消費させる。だから、四十代までに一生分の給料を稼ぎ、あとは季候の良い西海岸や地中海沿岸などで悠々自適の生活を送るというのがそこで働くトレーダーたちの夢だ。


時代の変わり目に、いつも人の意識はついていけない。


人の意識は、時代の変化には遅れるが、一代や二代では築けない美しいものも時間をかけて醸成する。


【国家の衝突 連載第20回】

自分の行動は棚に上げ、マスコミなどで口当たりが良いことを並べ立て、時には自分の所属する組織のことを批判して自分は「違う」ということを強調し、自分だけ目立って人気を得れば良いと考えているような連中が、学界だけではなく、丸の内や霞ヶ関や永田町などでも、幅を利かせ過ぎている。出世競争に敗れた相手の行状を、マスメディアに内部告発するサラリーマン。自分のことは棚に上げ、世間受けする霞ヶ関批判を展開するリベラリストを気取る官僚や官僚OB。カメラの前では自分の党の上層部を口汚く罵るくせに、大臣・次官などのポスト欲しさに党を一向に出ようとしない与党の若手議員。――どんどん卑しくなっている。


【国家の衝突 連載第17回】

傍から見れば単なる英文の朗読である。だが、この朗読を誰がやるかが、霞が関の官僚たちにとっては一大問題なのだった。外政省は、外政を管轄しているのが自分たちだということを他国に示したい。経済官庁は、経済案件は自分が管轄していることを示したい。こんな子供じみた諍いで、霞が関では徹夜の折衝が続けられる――。


政府においては、市場と違って貨幣や価格が存在しない。しかし、貨幣の代わりの働きをするものは存在する――それが、権力であり面子であり体裁なのだ。そして、霞が関ではその『貨幣』を集めた者が出世し、自分の後任には、『貨幣』を集めてきた者を引っ張り上げる。


以前の霞が関には、奇妙なほど陽気な熱気や気概があって、それが多くの野心的な若者を惹きつけた。


どうして昼時の番組はこれだけ画一的なのだろう。これが、この時間帯に家にいる主婦層の関心を示しているとすれば、ちょっと恐ろしいことだ。


【国家の衝突 連載第16回】

最近、グローバリゼーションという言葉がよく使われるよね。これは、資本や製品が国際的に移動する現象を主に指した言葉らしいけど、資本や製品なんかよりはるかに昔からグローバル化していたのが技術だと私は思う。例えば航空機のターボ・プロップエンジンには国籍はないし、ドルや円といったラヴェルも付けられていない。歴史的に見ても、優れた技術、あるいは国際スタンダードを勝ち取った技術は、国境を越えて世界を席巻してきた。そして、技術と正反対の位置にあるのが人(あるいは労働)だ。人のグローバル化は、資本や製品、さらには文化なんかよりはるかに遅れている。今でも、国境を越えた人の流れを厳格に制限していない国はほとんどないだろう。こうした、技術、資本、製品、文化、人の間に横たわるグローバル化の度合いのギャップが、国という単位あるいはモノ(?)の存在意義を必要以上に大きくしている気がする。例えば、最もグローバル化が遅れた人が、他の要素のグローバル化が進めば進むほど、国に依存するというように――。


【国家の衝突 連載第15回】

「宇宙船地球号」とか「人類皆兄弟」なんていう言葉を臆面もなく口にする教師は、実は海外に一度も出たこともないような人たちだったし、周りはみんな、同じ髪と肌の色をした連中だった。


【国家の衝突 連載第14回】

この国には最近、言い訳ばかりが氾濫していると思わないか


仕事に全力を尽くさなくても、それは家族や自分の人間性を大事にした結果だと慰められる、出世競争に敗れても、自分の信念を曲げなかったからだと慰められる、社運を賭けて応募した国家選定プロジェクトに落ちても、会社が小さいからと慰められる、勝者をみんなで寄ってたかって引きずり下ろし、敗者同士で傷をなめ合う……言い訳だらけの優しい国だ、この国は


今の日本人が抱え込んでいるのは、プライドなんかじゃなくて、実体のない虚栄心だろう。プライドというものは、実力のある者だけが持つ資格のある贅沢品じゃないのか


【国家の衝突 連載第13回】

大手メーカーなどによる政治的圧力はよく問題視されるが、それも、政治的あるいは民主主義的観点からの要請と捉えることが可能である。なぜなら、政治献金、利益誘導、圧力団体などは、いずれも民主主義の正統的な副産物なのだから。他に、外交的観点、経済的観点等々、政策運営にあたって考慮しなければならない観点は多数ある。そして、行政官が、理論家でも評論家でもなくあくまで実務家である以上、技術など単一の観点からプロジェクト選定の是非を判断するわけにはいかない――。


政府の政策の多くは、一つの尺度から測れるような単純なものではなく、複数次元の要素が詰め込まれた複雑なものなのだ。


プロジェクトの選定結果に対し、技術者は、技術的に優れた提案が落とされたことを批判し、経済学者は、効率性の悪いプロジェクトが選ばれたことを批判し、一部文化人は、国民の潜在的支持の高い環境フレンドリーな提案が選ばれなかったことを批判する、といった具合だ。つまり、実務家である政策担当者が発表する政策やプロジェクトは、常にどの尺度から見ても不十分なものであり、常にあらゆる専門家の批判を浴びることになる――逆に、一部の専門家の賞賛を浴びるような政策やプロジェクトは、著しくバランスを欠いたものでしかない。実際の例でも、理論経済学者が主導したロシアなど移行国の経済政策や、技術者に選考を委任した我が国の一部の科学技術プロジェクトの結果を見れば、専門性の突出に弊害が伴うことは容易に見て取れよう――。


【国家の衝突 連載第8回】

どうして日本人はいつもこう、他国人の前で、自国のことを簡単に批判し嘲笑するのだろう――。


もし燃料電池型自動車を旧来の『自動車産業』の枠から外して、例えば『電気自動車産業』という新たな産業分野に属すると考えれば、これほど成長ポテンシャルのある産業はシリコンヴァレー界隈でもほとんどないのじゃないですか


これから新技術がこの業界を席巻し、その技術を独占する会社が、ソフトウエア産業で最近勢いづいているマイクロソフトのように、産業を独占するような状況になれば、その会社がアメリカにあることは間違いなくアメリカにとって良いことです


【国家の衝突 連載第7回】

世間には、自動車産業のように、生産ラインの効率性を一秒単位で誇る組織もあれば、自らの非効率性を他人に押しつけることが権威の顕れと勘違いする組織もある


 

2009-2-2

【国家の衝突 連載第6回】

その交渉過程で日本にとって問題となるのは、交渉の舞台となる国際機関の多くが欧米諸国主導で設置され運営されてきたことだった。欧米諸国が長年にわたって築き上げてきた組織、規範、人脈、信頼、運営ルールといったものは、陰に陽に欧米各国を利し日本に不利に働くようにできている。さらに、交渉に立つ日本の官僚たちの専門知識や英語力の決定的な欠如――。その結果、国際機関への出資額が一位あるいはアメリカに次いで二位であるにかかわらず、国際交渉への影響力という点においては、日本のそれは、アメリカはおろか、フランスやイギリスといった国々にもとうてい及ばなかった。ここでもフローではなくストックなのである。そうやって欧米諸国のストックの力で不利な国際標準を呑まされた日本は、不利な規格下で欧米諸国と競争させられることになる。


ある手法や製品が独創的か独創的でないかは、それらが新たな国際標準として認められるか否かにかかっています。


国際標準化に必要となる政治力を欠けば、手法や製品や技術などがいかに優れていても、それらは国際標準となりえず、独創的なものとも認められません。


鈴木大地の例に戻って言えば、彼が発展させたバサロ泳法がその後国際水連で制限されなければ、バサロ泳法は今頃背泳競技における事実上の国際標準となり、鈴木大地はその国際標準を創りだした独創的な選手として尊敬されていたに違いありません。しかし、バサロ泳法が制限された今、鈴木大地は珍妙な泳法でうまく国際水連ルールをかいくぐり金メダルを取った『変な』東洋人としか欧米人には記憶されていないでしょう。


国際標準を創り上げるには、画期的な技術や製品に加え、それを国際ルールにはめ込む政治的な力が必要になってくるのです。日本からは独創的技術が産まれないという欧米諸国やそれに迎合する日本の言論人の主張が、彼らが誇張するほどではないにしろ一定の正当性を持つ一因には、国際標準を巡る政治的ゲームに日本が負け続けてきたという面があるのではないでしょうか


いくら理念的な自由競争モデルが学者やジャーナリストの間で拡がったとしても、水泳で言えば自由形のような自由競争が行われる領域は現実の経済社会では思いの外狭く、多くの場合市場は、歴史、制度、法律、規範、慣習などにより区切られ規定されているということです


【国家の衝突 連載第5回】

今後、自動車という産業自体の性格づけが大きく変わります。環境対策のための燃料電池などの開発には多大な投資が必要となることや、燃料電池の融通性を高める必要性のため、例えば燃料電池の性能・規格は一つか二つの事実上のあるいは法的な国際標準に収束されていくでしょう。そうなると、産業の性格は、従来の収穫逓減的なものよりはむしろ、コンピューターソフトのような収穫逓増的なものに近くなっていくはずです。要するに、最近躍進しているMS-DOSのマイクロソフトのような、国際標準を制した企業の一人勝ち的状況が、自動車産業にも現れる可能性があるのです。とすれば、政府が、自国企業の開発した電池やエンジンなどの性能・規格が国際標準となるよう政治的、経済的に後押しすることは、長期的には我が国経済に大きなリターンを生む可能性があります


ゴールデンウィークが明けた頃から、霞ヶ関では、翌年度予算要求に向けた作業が本格化する。この季節は、日頃保守的と言われる官僚たちが、最も創造的になる時季である。


国際標準というもの自体が相対的で政治的に決められるものだということに注意する必要があります。ですから、絶対的に見てどんなに優れたエンジンだったとしても、国際標準という相対的な座標軸で評価する場合には、必然的に政治力と運とが大きく作用することになるのです


【国家の衝突 連載第4回】

たかがフローベース(年ベース)の一人当たりGDPがアメリカを上回ったからといって、あのアメリカに追いつき追い越したつもりになっている浮薄さが、永田町、霞ヶ関、丸の内を始めとし、世間全般に蔓延していた。その挙げ句が、どこの誰が考え出したのか「国際貢献」という驕り高ぶった造語である。


経済や社会の真の豊かさを示すのはGDPなど年単位のフロー指標ではなく、有形無形のストック指標のはずなのであり、そのようなストックベースの観点が欠けているからこそ、うさぎ小屋から毎日通勤ラッシュに一時間以上も揉まれて通勤する住人が、自らを世界一の金持ちと勘違いし「国際貢献」を説くという滑稽な状況が現出しているのだ。実際にパリやマドリードの街角に立ったとき、あるいはニューヨークやシカゴ郊外の(アメリカ人の基準からすれば)ごく普通の住宅地に立ったとき、自分たちの国の方が豊かだと本気で思う日本人がいったい何人いるのであろうか。


そういった明確に予測しうる将来の衝撃に備えるためには、経済が好調な間にストックを蓄積しておかなければならないのだが、まるで世界経済で一人勝ちしているのをやましく思うような論調が世間に横行し、依然自分よりはるかに豊かな欧米諸国を勝手に哀れみ、下品な慈善心を押し売りすることにより国際人を気取るというのが時代の風潮となっていた。


アングロサクソン系の裕福な家であれば、子供の顎の形や歯並びが整うよう最大限気をつけるはずだから、これらは育った家の富裕度を測る一つのメルクマールにはなる。


アメリカは自動車産業と共に発展してきました。いわば、自動車はアメリカの社会であり文化そのものです。その自動車がドイツ製や日本製のものばかりになったら、あるいは自動車工場でブルー・カラーとして働くのが我が国民で、それを管理するのがドイツ人や日本人という分担構造ができあがったら、我が国民は、湾岸戦争で見せたような国に対する誇りや愛国心といったものを持ち続けることができるでしょうか


 

2008-12-14

【三本の矢】

公的資金導入問題。もう少し対象を広げれば、バブル後の金融機関の再建問題――。これほど政治の論理、行政の論理、経済の論理、司法の論理、経営の論理、さらには義理人情の情理など、次元の異なるさまざまな理屈が混同されて論じられている問題は、近年ないだろう。


中身のない答弁をそれらしく見せかけるための語彙の豊富さに関しては、官僚は文化人をも上回っている。


とにかく国会答弁では、政治家やマスコミの連中に言質を与えちゃいけない――それがすべてだ。『この前言ったことと違うじゃないか』とすごむのが、ろくに政策の中身もわかってない連中にとって一番手っ取り早い政権批判になるからな


もちろん、行政の一貫性というのは必要で、政府はそうころころと主義・主張を変えてよいわけではない。だが、政治・経済を取り巻く環境は不透明だ。特に金融は、一日先に何が起きるかもわからない。そういう状況下で、野党やマスコミがああいう戦法を取るのなら、こちらはなるべく中身のないことを言って、フリーハンドを確保しようとするのは当然じゃないか


国会なんかで無駄な労力を費やしていたのではまともな行政はできなくなるということが、そのうち必ずわかる。


信念から出た意見が派閥抗争に利用されたり、周囲から勝手に一方の派閥のレッテルを貼られたりするうちに、誰もが泥沼へと引き込まれていく。


いい加減日本の預金者も、預金の金利を金融機関からもらっているぶん、リスクを負わなければならないことを自覚すべきです。


失うものの吟味が十分になされぬまま、アメリカ留学帰りの経済学者や評論家などによって、日本のシステムが叩き潰されようとしているのが、昨今の一方的な風潮なのではないか?


『経済学的合理性』イコール『経済合理性』ならば、なぜ経済学的に非合理なシステムを採用してきた日本などが、このような経済発展を実現したのでしょうか。さらに逆に言えば、果たして『経済学的合理性』を追及した経済運営が、経済発展をもたらした例はあるのでしょうか?


要するに、経済学が現実経済の下で有効性を証明したことはほとんどないのです。それどころか、現実をいつも後追いして、現実に合わせて理論を都合よく修正してきたのが経済学じゃないのですか


無理もない。実際の経済運営で経済学の有効性をまったく示し得ていないことが、経済学者にとっての最大の弱みなのだ。


ここで確認しておかなければいけないのは、近代経済学というものは、起源こそ異なれ、アメリカにおいてアメリカ人によって発展してきた学問だということです。アメリカに留学していたときに私は、なんとこの国は経済学に適した風土を持った国なんだと思いました。しかし、今になって考えてみれば、そもそも近代経済学というものは、アメリカの風土・文化・歴史・制度などを前提にして育まれた、アメリカの思想のようなものとも言えるのじゃないでしょうか。そう考えれば、ノーベル賞全部門中、アメリカ人が受賞者の過半を占める唯一の部門が経済学賞だというのもうなずけます


ちょっと経済の調子が悪いからといって、過去のシステムすべてを捨て去り日本国民の今後の生活を賭けるほど、経済学――あるいは経済学的合理性とは信用のおけるものなのでしょうか?


政策を批判することだけで飯を食っている野党やマスコミほど楽な商売はなかった。そもそも政策などというものは、ケチをつけようと思えばいくらでもケチをつけられるものなのだ。


難しいのは、政策を批判することではなく、何もない無の状態から、全体的に見て最適と思われる政策を創り上げ、それを政治的・経済的な制約のなかで通していくことなのだ。


歴史や文化のまったく異なる他国の制度を賞賛して、自国の制度をこき下ろすという奇妙な風潮が日本に根づいた一因は、マスコミや学者の創造性のなさにあることは間違いない


形式上のプライドを重んじる霞が関の官僚は、自ら他省に足を運ぶことを極端に嫌う。書類のやりとりをする際に、ちょうど中間地点にある交差点が受け渡し場所に指定されるような世界では、次第に横の関係は切断され縦の関係ばかりが太くなる。


知能犯罪を犯しうるような知性を持った人間は、ある程度以上の生活水準を享受しているのがふつうだ。とすると、犯罪が発覚して牢屋にぶち込まれた際に彼らが失うものは、平均的な犯罪者に比べてはるかに大きい。要するに、犯罪が露見した場合のリスクが高いがゆえに、そういった人間の犯罪市場への参入が抑制されているというわけだ。まあ、こんなことを公では絶対に言えないが、犯罪と学歴や所得との間に強い負の相関関係があることは、警察庁内の心理学・社会学的研究でいやというほど出てくる


ベルリンの壁が何かを知らない者がベルリンの壁について意見を言ったとしても、果たしてそれは民意と言えるか? マスコミや扇動政治家の論調に煽られたような、きちんとした知識や関心に裏付けされていない世論は、何かと一方的になったり、猫の目のようにくるくる変わる。そういう場当たり的な国民の世論を、政治・行政はいちいち追いかけるべきなのか?


行政というものは、ビジネスと違って、儲かったか儲からなかったかの単一の尺度で成功を計れるものではない。ある部分を守ろうとすれば、ある部分を喪う――その繰り返しである。もしかすると永遠に成功というものには手が届かないのかもしれない。それでも、毎日のように政策は立てられ実行されていく。そして、政策立案者としての官僚は、失敗者として責任を取らされることもない代わり、成功者として賞賛を浴びることもない。ただ黙々と、物差しのない世界を手探りで進んでいくだけなのだ。


なぜ民主主義政体下で、多数者の意志が少数者の意志の前に破れることがあるのか?


なぜ、全人口の五パーセントを占めるに過ぎないコメ農家の保護のために、残りの九十五パーセントの国民が、アメリカの十倍もの米価を甘受するのか?


だから政治音痴のシカゴ学派は困るんだ。『ごく短期的』にと思っていても、いったん何らかの規制や金融機関救済スキームができあがれば、それが要らなくなったからといってすぐに引っ込めることは、政治的に不可能になるんだ。<制度>は一度出来上がってしまうと、その利権を求めて食いついてきた政・官・財の連中によって必要以上に長期間維持される。


政治学者は、民主主義過程を通った<政治>が、経済的に愚かで不合理であると考えるがゆえに<行政>の介入を評価するのだが、経済学者は自動調整機能を持つ<市場>に、<政治>と<行政>の複合体である<政府>が介入することを批判する。なんとなく座標軸がかみ合っていないと思わないか


いかに世論が近視眼的で、場当たり的であるか。いかに民主主義が経済的に見て不合理な結果をもたらすか。


なぜ官僚のほうが市場における個別プレーヤーより合理的なのか? 先見性があるのか? 理知性があるのか? といった基本的な質問に対し、彼らは十分に答えていない。


学者のすべきことは、理論上最適な解は何かを示すことであって、その最適解が現実に到達可能かを判断するのは実務家に任せればいい。


自然科学と違って、経済学のように実社会における実効性が証明されていない学問は、一種宗教的な面があるんだ。信じるか、信じないか、それが問題だ


選挙に拘束されず、身分も保障されているという特権を受けている官僚は、私欲を捨て、あらゆる意味の政治から自立し、国民全体にとっての理想を追求していかなければならないんだ


人間として許されないことでも、ときに、ビジネスマンはしなければならないのです。


あなた方は『理想』だとか『あるべき日本の姿』だとか、宙に浮いたようなことを本気で議論する。それは、あなた方が特に志が高いのでも、愛国心が強いのでもなく、ただ、あなた方が責任を取らずにすむ立場にあるからなのです。戦場から隔離された温床でぬくぬくと暮らしているからなのです。


金融機関は国際競争力がまったくないくせに、規制で守られているから給料が不当に高い。だから、給料が高いなどということは自慢すべきことではなく、恥ずべき事だ


こんなことでいちいちカチンときていたら、とうていビジネスはやっていけない


いくら『正論』であったとしても、そんなものに拘って遠慮しているようでは、ビジネスの戦場では生き残れないのです


あてにならない理論などより、酒の席でのサーヴィスのほうがよっぽど利益につながるということを、現場の人々は皆知っていたからです。

[ 榊 東行 ]