[内田樹の言葉]

2009-07-04

【日経ビジネス

エコというのは下手をするとファシズムに結びつく恐れがあります。第2次世界大戦の時期にドイツで興った青少年団のヒトラーユーゲントは、最初に加工食品や添加物に対する拒否から始まりました。ゲルマンの大地で育った無添加の食品を食べましょう、という運動が初期に見られたのです。大げさかもしれませんが、エコとか農業回帰が行き過ぎれば、わずか1つのネジが外れるだけで、人種主義や外国排斥運動に走るという懸念もあるのです。だから、成熟した社会では、旧来の価値観が崩壊した後に起こる揺り戻しに対し、その危険性を見ながら振れ幅を調整する必要があります。


「ファシズム」は「束ねる」という意味の「フェソ」から発しています。ブルジョア階級も労働者階級も、格差を超えて国民が1つになろうという運動がその起源でした。


多くの日本企業は人事戦略で失敗しました。成果主義の導入や非正規従業員の増加などで、仕事をモジュール化してしまった。成果主義も非正規雇用も、労働を均質化して給料分の仕事だけをさせるシステムです。しかし、企業が安定して成長するためには、組織への帰属意識が強い少数社員による人事評価の概念を超えるほどの過剰な働き(オーバーアチーブ)が重要なのです。私も仕事の成果を公平に判断するために、大学に成果主義を導入した経験があります。運営に当たって随分と研究しました。その中で分かったのは「ああ、これは何もしない方がいいな」ということです。

 

2009-02-01

【新潮45】

ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が競われています。もっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間がネット論壇では英雄視される。


ネット上の論争において、私の知る限りでは、「批判に応えて、自説を撤回した人」や「自説と他者の理説をすり合わせて、落としどころで合意形成した対話」を見たことがありません。


「私は正しい、おまえたちは間違っている」とただ棒読みのように繰り返すだけの言葉づかいは市民的成熟とはついに無縁のものです。


人の話の腰を折り、割り込み、切り捨てるという「朝まで生テレビ!」や「TVタックル」のスタイルに変わりました。番組自体はもちろん有意義な情報を(政治家というのはこれほどマナーと頭の悪い人々なのだという事実の開示など)提供しているわけですから、それはそれでよいのですが、これらの番組が、政治を語るときの話法のスタンダードを提供したことの罪は重いと思います。他人の話は聞かない、自分の意見だけを言いつのり、どれほど反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀が「ディベート」なのだということが私たちの社会の常識になりました。子どもたちは大人の語り口をすぐに学習しますから、意見の違う人と議論するというのは「こういうこと」だと信じ込んでしまう。


人が冷静に、相手の立場を気遣いながら、妥協点を手探りするディベートを生まれてから一度も「生で」見たことがない子どもが「情理を尽くして語る」という言葉の意味がわからなくても、それは彼らの罪ではありません。


身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は決して創造的な仕事には携われません。彼らは必ず何かを「破壊する」ことに惹きつけられます。破壊者の側に回れば、自分よりも遙かに社会的に実力がある、上位の人間とも対等にふるまえ、上位に立つことさえ可能だからです。


創造するということは具体的なことです。創造した以上、「現物」を相手の目の前に差し出して、その視線にさらし、その評価の下るのを待たなければならない。いわば、自分の柔らかい脇腹を鋭利な刃物に向かって差し出すようなものです。だから、全能感を求める人間はものを創ることを避けます。自分がどの程度の人間であるかあからさまに暴露されてしまうからです。


自分は何も「作品」を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。

[ 内田 樹 ]